佼成の学び / 教会長メッセージ

2022年6月4日「開祖さまご命日」「佼成6月号の学び」

皆さまお願いいたします・

6月4日「開祖さまご命日」配信を通して皆さんにご参加頂いています。

ありがとうございます。

昨日は、雹(ひょう)が降ったりして天候が不順の中、気温も変化していますが皆さまお体に気をつけて頂きたいと思います。

教会では、先月から戒名修行と道場健幸行を始めさせて頂き、今月からはコロナの感染状況を鑑みながら、戒名修行は全員が参加できることとし、道場健幸行の時は支部の方々の参拝もして頂けるようにしまして、すでにおいでになっている信者さんからは「この日を待ち望んでいました」との声を聞かせて頂き、支部長さんを中心に和やかな触れ合いをされながら、健幸行をされている姿を拝見させて頂いています。

会長先生より道場健幸行を通して、身心ともに健やかになられ、願って功徳を積まれることで元気にそして幸せになって頂きたいとお示し頂いておりますので、どうぞこれからも少しずつではありますけれども、道場健幸行にお越し下さいますようお願いいたします。

それでは、6月号の佼成の学びをさせて頂きます。「慈悲の心で、忍辱②」です。

先月5月号では「我慢しない」という忍辱①を学びました。忍辱というと耐えるという印象が強くありますが、その中には誰もが自然と苦難を乗り越える力を持っているのですと教えて頂き、だから前向きな受け止め方ができることをご指導頂きました。

今月は「慈悲の心」でということで、最初に「最高の忍辱」とあります。

今月は良寛禅師さまのお言葉に心が穏やかにさせて頂きました。

まずは良寛禅師の歌です「人の善悪(さが) 聞けばわが身を 咎(とが)めばや 人はわが身の 鏡なりけり」のお言葉に会長先生は「人の言葉や態度を見て、自分はどうだったかと省みる「人のふリ見て我がふり直せ」ということわざに似た印象です」とおっしゃっており、また「自分に対する悪口やほめ言葉を耳にしたら、それに怒ったり、のぼせあがったりしないで、自己のありようをよくよくふリ返ってみよう」

その人の気になることがあったら、それは自分の鏡なんですよと教えて頂いておりますが、いつも自分自身のあり様を振り返っていくことを大切にしたいと思います。

次に「こうしたふリ返りが、おのずと心の波立ちを静める忍辱の実践になることを、この歌は私たちに教えています。また、子どもから大人までたくさんの人に慕われた良寛さんですが、そのことをおもしろく思わない人もいたようです。

ある日のこと、つねづね良寛さんを妬ましく思っていた一人の僧が、泥だらけの酩酊状態で禅師を訪ねて来るや、自らの帯でいきなり良寛さんを叩きはじめたそうです。しかし、良寛さんはただ打たれるにまかせ、難が去った夕刻には、雨がしきりに降るのを見て、ひとこと「あの僧は、雨具をもっていただろうか」とつぶやいたそうです」

皆さんいかがですか?もし自分だったら、ここまで相手の心配行ができるかなと思いました。

良寛禅師のこの温かい心を会長先生は「先月の本誌で、耐えたり我慢したりするのではなく、ものごとや人を自然に受け入れる気持ちが起きるのが「忍辱」とお話ししました。受け入れて認めるということですが、それに加えてこの話からは、慈愛もまた忍辱を実践するうえで大きな力となり、支えとなることがわかります」とおっしゃっています。忍辱はただ我慢することではなく、受け入れて認めていくということです。六波羅蜜に忍辱行が入っているということは慈愛に満ちた行をさせて頂くということが込められています。

開祖さまは、「教えを聞いて自他一体感が深まり、ものごとを客観視する習慣がついてくると、寛容の精神と、他人の立場に対する理解ができてくるために、怒る気持も、恨む心も起こりません。逆に、――ああ、かわいそうな人だ、なんとかしてあのまちがった心を直してあげたい――、という慈悲の心が起こってくる」といわれ、これを「最高の忍辱」と述べています。

善悪で物事を見たりせず、自分の考えはそこに入れないで、客観視して相手を認めていく中に、寛容の精神が起こり、相手もつらいことがあったんだろうなという自他一体の心が沸き上がってくると皆んな同じなんだという心をまず自分の中に起こさしめることが大事なんです。

「心を少し教えに向けて」という章になります。

「ところで、人生には苦しみや悲しみがともなうできごとをとおして、初めて大事なことに気づくことがあります。良寛さんには「忍是(れ)功徳(の)本」という書もあります

ここでいう功徳とは、そうしたつらく悲しい体験によってわかること、気づくことの一つ一つではないかと思います。受け入れがたいこともしっかりと見据えて受け入れ、認めることで心の器が少しずつ広がって、より柔軟にものごとを受けとめられるようになる功徳です

人生の苦しみや悲しみのところで、私は幼少のころを思い出しました。

兄が言っていた「いろいろあったけど兄弟仲よく助け合っていきたいね」という言葉が印象に残っています。苦しみや悲しみの中で両親が一生懸命に子育てをしてくださった後ろ姿から、柔軟にものごとを受けとめていくことに気づき、乗り越えられたことが沢山ありました。

私たちはご法を頂いていますが、大事なことは苦を宝に、チャンスにしていくこと、苦の中に功徳を見つけていくこと生き方を教えて頂いております。

とはいえ私たちは「仏さまのように穏やかな心で忍辱を実践することなどできないと諦めていないでしょうか。」ということで、私は仏さまと違うんだと思ったこともありました。

「ただ、良寛さんの事跡を見ると、過去にとらわれないとか、遊び一つにも無心でとりくむとか、人の助言を素直に聞くとか、「すべては自分」と受けとめて自己をふリ返るなど、そのときその場でほんの少し心を仏の教えに向けるだけで、法華経で「如来の衣」と表現される「柔和忍辱の心」を身につけることができる」

良寛さんより、①過去にとらわれないとか、②遊び一つにしても無心にとりくむとか、③人の助言を素直に聞くとか、④「すべては自分」と受けとめて自己を振り返るなど、を身につけることを教えて頂いていますので、心に留めていきたいと思います。

朔日まいりの時に会長先生より、そうですね。ということがなかなか言えない、まず自分がそう思えてなくても、そうですね。と受け入れていく習慣を作っていくことが大切とお示し頂きました。

すべては自分というとらえ方は自分が悪いということではなく、自分から始まっていくということで「一念三千」のごとく、自分から発していくということです。まず自分から身につけていくということです。

「自他一体という見方で、まごころをこめて人と接することを忘れなければいいのです。私たちには本来、仏性が具わっているのですから。」

自他一体のお話しのように、みんな仏性があるのですからまごころを込めてを大事にして頂きたいです。

最後にもう一首、良寛さんから「我宿の 草木にかくる 蜘蛛の糸 払わんとして かつは(すぐに)やめける」忌み嫌うものでさえも、自他一体の心で拝む。その祈りとともにある平安を私は信じるのです

悉有(しつう)仏性・・生きとし生けるもの、すべてに仏性が具わっているとお示しになり、良寛さんはどんないのちに対しても合掌していく徹底したお心を示めされていると思わせて頂きました。

13ページにあった「受け入れがたいこともしっかりと見据えて受け入れ、認めることで心の器が少しずつ広がって、より柔軟にものごとを受けとめられる」との一節がありましたが、この度おかげさまで娘が新たな出発をすることとなり、いままでにない笑顔を見せてくれています。いままで本当に頑張ってきた娘の努力を認めることで、共に心の器を拡げさせて頂き、喜びを分かち合える親子になれた功徳を頂きました。

良寛さんに少しでも近づくことを目標としていきたいと思います。

信者さんとの触れ合いの中で、また同じことで苦しんだり悩んだりしていると思った方もいるかと思いますが、その方にとっての、良くなりたい、なんとかしたいという求道心を称えてあげられたらと思います。慈悲心を持って接する関わりが大切になります。

今月もさまざまな変化があるかと思いますが、慈悲の心で心おだやかに、開祖さまが語られました「心の平安」を実践させて頂きたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

平塚拝