教会長メッセージ

2021年12月4日「佼成12月号の学び」

皆さまお願い致します。

 本日は開祖さまご命日、ただいまはご本部熊野部長さんご導師のもと、各ご家庭でも配信を通してご供養をさせて頂きました。誠にありがとうございます。

 今日は佼成の学びをこれよりさせて頂きます。朔日まいりの日は本部の配信により佼成ニュースもございますので、教会役員さん方と相談させて頂きまして開祖さまご命日にさせて頂くことになりました。どうぞ皆さまよろしくお願い致します。

 12月に入りまして、一年の締めくくりの月となりました。今日も本当にお天気が良く、かなり感染者も減少してまいりましたが、変異株も出てきているとのことです。どうぞ皆さまくれぐれも引き続き感染対策をされてご注意頂きたいと思います。

 お手元に佼成12月号がございますでしょうか。今年、会長先生から「反省創造しよう」という年頭ご法話を頂戴致しました。大切にすべきものは何か?ということ、そしてまたコロナ禍の中で、家庭不和になったり、大変な状況の中で家族が孤立していることもうかがわせて頂きます。その時々の自分の心が、今どういう気持ちで、どういう心で過ごさせて頂いているかということを会長先生から今年はまず「反省創造しよう」というお言葉を頂きました。そして佼成11月号でも「なぜ、反省が必要なのか」と、反省、というお言葉をご法話の中でも頂きました。そして今月が「心の声に耳を澄まそう」会長先生から反省懴悔の尊さをお示し頂きました。

(12ページ)懴悔は悟りと一つ 法華経の結びの経典といわれる仏説観普賢菩薩行法経、一般的には懴悔経と言われていますが、その中に「懴悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住せざること、猶お流水の如し」という一節があります。会長先生はずっとご法話で法華経を基にして、必ず一節を引用して下さいます。私は、これはどこにあったかなと、ご供養の時に普段はなかなか意識しないのですが、このたびも意識して懴悔経をあげさせて頂きました。415ページにございました。どのようなときでも反省や懴悔を忘れなければ、さらさらと流れる水のような、自在にして清々しい生き方ができるというのです。11月号でも懴悔の大切さをお説き頂きましたけれども、皆さん反省懴悔させて頂きますと、心がどういう状態になりますか?心が浄められて、安心感でしょうか、それをとても感じさせて頂きます。自分の中に何かわだかまりがあると顔の表情も固くなりますし、家庭においても何となく空気がよどんでいるような、そういうときがあります。そうしたときに、自分が今どういう状況にいるのかなとまず自分自身を省みていく、そのことがまず懴悔の中で大切なことなのですね。

(13ページ)懴悔は究極のところ「諸法の実相を深く思念すること」と記されています。妄想や執着を離れて、ものごとのほんとうの相を観なさいというのです。今日は奇しくも先ほど常住此説法で「諸法の実相を観る」とお示し頂きました。皆さんとご法の習学をさせて頂こうとしますと、その声を聞いて頂いているかのような、先ほどは開祖さまのお言葉をひとつひとつかみしめさせて頂いて、「諸法実相」ということを改めて学び直すことができました。ありのままの姿、すべての物事は宇宙と一体となっているのだという世界、その世界を、会長先生が普段からある「年表」をかばんに入れて持ち歩いていらっしゃるとあります。支教区の教会長さん方の中でその「年表」を手にされた方がいらして写真でお分け頂きました。とてもわかりやすい図表とか絵本のような内容でしたが、宇宙は138億年、地球は46億年、生命が誕生したのが38億年、人間として生まれたのが20万年前、とても想像のつかない年数です。

 この中で会長先生が(14ページ)「われわれはこうしていま、ここにいるのだ」と、人間の存在や命の不思議を思います。同時に、あらゆるものが、はかりしれないほどの時と広がりのなかで、一つの大きな「いのち」を相互に育み、伝えてきた壮大な歴史を思います。ということです。一人の人間が、この壮大な世界、ご縁の中で包まれて、育まれて、今自分自身がいるんですよ、というこの世界をもう一度自分の中におこさせて頂くということですね。

現実を見ると人も事象もすべてに差異がありながら、みんな違いがありますよね、草も木も動物も、でもその差別なくあまねく等しい絶対の真理の世界がある、ということですね。それがみんな一つのいのちに生かされている宇宙と一体なんだと、実相をかみしめて自分自身を省みる懴悔は、身心を浄化する悟りそのものとさえ思われるのです。懺悔は悟りとひとつ、ということが、自分のひとつひとつの行いを省みて、今日はこの人に冷たくしてしまったなと思えた時に、お互いに持ちつ持たれつ、この方がいて下さるから自分もお役をさせて頂けるのだと思えるわけです。

 今年は70周年という大事な節目、修繕のお手配、どこをどのように取り組ませて頂いたらよいのか試行錯誤の一年でした。その中で様々な自分の心が動いたこともわかりました。ともするとご法を自分ではなく人さまに向けてしまって、どうしてわからないんだろうとか、できないんだろう、という心がおきました。一人ではお役はできません。信者さん方と会いたいときにお会いできない中で、いつも教会の護持、一緒にご本仏さまを護って下さった部長さん方、支部長さん方、一番身近な人たちに支えて頂いてこの一年間いろいろなことがありましたけれど乗り越えてこられたのだなと思わせて頂きました。私はとても頑固なところがありまして、その頑固さが相手を苦しめる頑固さになってしまった時もございました。ひとつひとつ気づかせて頂きながら教えて頂きながら、相手に合わせている自分だと思う時もありましたが、合わせて頂いている私だったのだなと。これは教会だけではなくて家族でもそうですが、必ず私の予定を先に聞いてくれる主人や息子です。そういう中で家族の計画も進めてくれています。ですから、先ほど開祖さまも仲良く調和ということをおっしゃってくださいましたが、自分の至らなさに気づかせて頂く中で、皆さんに支えて頂き、合わせて頂き、だからこそ和になって頂いているのだと。だから諸法実相を見ていくということが、とても反省懴悔をさせて頂く中で大事なことであるし、それが悟りの世界に入らせて頂いているのだなと思わせて頂きました。懴悔の究極のところ、最高の懴悔について開祖さまが紐解いて下さっていますが、いつも仏さまとおなじいのちをいただいているということを信解すること、思い念じていくということをしっかりと心に留めさせて頂きました。

(15ページ)法華経、そして佼成会の真精神、宗教者の懴悔は精進に向う克己心や忍耐においてより強いかもしれません。一般的な反省も上に向かって進むことだと思うのです。その意味で、私は反省も懴悔も、本質的には同じと受け止めています。反省しながら智慧を頂いて人間は進化していくのだなと、思わせて頂きます。先日久々に孫のところへ泊まらせて頂きまして、そのときに今5年生の孫がふと思いついたかのように、最近忘れ物が多くて先生に叱られるんだよね、だからさ、(その日は金曜日だったのですが)月曜日に持っていくものをこれから帰ったら用意しておこうかなと、言うんですね。わあ、すごいね!と。月曜日の準備をやろうとしている孫の頑張り、いつも忘れ物をしている自分を反省して、私に懴悔されたわけです。そして孫は孫なりに智慧を頂いて今日やっておけば大丈夫だと。そういうものをまだまだ幼くても、自分が変わりたいと行動を起こしていく、孫の仏性を拝ませて頂きました。

 ここで大事なところがあります。「汝当に仏を念ずべし」と懴悔を促す一説がございます。こちらは三部経の405ページにございます。「自分のなかの仏を見つめなさい。真実の自分に帰りなさい」と諭す内なる仏からの声に耳を傾けることを教えているのでしょう。自分の中にある仏性ですよね。自らの仏性が今自分に怒りや自己中心の心になっていないかと問いただしてくれているのです。そういう真実の自分、本来持っている仏さまと同じいのち、仏性、その声に耳を澄ませば、よりよく生きる心がととのっていく、とあります。反省懴悔も仏性のあらわれですよと11月号でも教えて頂きました。全ての人に宿っている仏と同じいのち、そこを観ていくそれが諸法実相を観ることと思わせて頂きました。どういう心で信者さんと取り組めばいいのでしょうかと聞かれた時に、ご宝前に額づいて一心に仏さまを念じさせて頂きましょうと、不思議とその人にふさわしい言葉かけとか智慧を頂けたこと、皆さんたくさん経験されているのではと思います。皆さんに喜んで頂きたい、幸せになって頂きたいとその心を大事にさせて頂くことではないかと思いました。

(16ページ)法華三部経を所依の経典とする本会で、開祖さまが率先して合掌礼拝を大切にされたのは、常不軽菩薩のその姿勢こそ人のふるまいのお手本と受け止められたからです。それは懴悔という悟りを身で示す、最も身近な実践といえるかもしれません。本会の行法は仏性礼拝行と教えて頂いております。いつも開祖さまは率先垂範してお示しくださっていますし、会長先生も私たちの足元までおりてきてくださって拝まれるその姿、私自身もどんな方にもそういう気持ちをもって触れさせて頂くことが大事だと思います。最後の2行ですね、開祖さまが、日々に礼拝された合掌印の仏さまが、いまもわが家で、多くの人の幸せを祈念してくださっています。ここは皆さん、とても温かいものを感じられたのではと思います。先日、私は先輩さんの温かい思いに触れさせて頂きました。今日はこの場をお借りして皆さんにも懴悔をさせて頂きます。

 まず10月31日周年記念式典の中で「70年の歩み」これは青年さん方とお役の皆さんが一所懸命70年の歴史を感謝の思いで作成して下さいました。私は何度も視聴させて頂いておりました。先月11月に歴代の教会長さん方がご紹介されるところで、私の前任の安間教会長さんのご紹介の時に、安間紳浩さんがご就任されましたというくだりがありました。あれ?と思いました。ここのところずっと記念誌のお願いやお礼のお手紙を書かせて頂いていましたので、安間紳雄さまと書かせて頂いていたので。もう一度よく見させて頂いたところ、紳浩さんになっていました。わかった瞬間、血の気が引いていくような、大変なことをしてしまったと、いてもたってもいられない思いでした。部長さん方ともう一度確認をさせて頂いて、その日のうちに安間教会長さんにお詫びのお電話をさせていただきました。「教会長さん、70周年の歩みの中でお気づきのところありましたでしょうか?」と伺いましたところ「はい。」と、そして「私は新しいご選名を頂戴したのかなと思って嬉しいです。」とおっしゃってくださったのですね。ああ、なんて温かく優しい教会長さんなんだろうと。間違えましたね、と言われてもおかしくない状態であったわけですけれども、一瞬に心を救って頂いたと今でも昨日のことのように思い出されます。次の日に瀧口実行委員長さんと総務部長さん教務部長さん私と4人で、ご来賓の方々への記念品もございましたので、行かせて頂きました。もう一度このたびは本当に申し訳ございませんとお詫びをさせて頂きました。その時には紳浩さんの浩がご子息さんの通浩さんの浩の字で、「僕は息子とひとつになれたのだと思わせて頂きました。」と、そうお言葉を下さいました。どこまでも私たちの過ちをとがめるとかでなく、全部功徳として目の前の人に安心感を与えて下さる、そういう教会長さんのお慈悲を頂き、これが私が今70年という歴史のある教会を受け継がせて頂いて、何をまた、皆さんに繋げさせて頂くのかと考えた時に、どんな時にも目の前の人を拝む、温かい言葉をかけさせて頂ける、そういう人になっていくことを教会長さんのお姿から学ばせて頂きました。70周年の原点に立ち返るという周年の意義がございます。まず自分自身がたくさんの人に育てて頂いて、また次代へ繋げていくその中で仏さまのお心の如くに、どんな人にも温かい言葉をかけさせて頂くことを安間教会長さんのお姿から、また部署ごとに精一杯お役に取り組んで下さった皆さんの真心のお陰様で私自身が大きな宝を頂いたのだなと思わせて頂きました。

 12月、一年の締めくくりの月に、いつも開祖さまが身をもって示してくださった、また先輩教会長さんが後ろ姿で示してくださったように、私自身が後ろ姿で示していくことが先輩さん方が素晴らしい教会をおつくりくださったご恩に報いることではないかと思わせて頂いております。8日には仏教三大会、お釈迦様が悟りを開かれた成道会が開かれます。自分自身の心が清らかでないと仏さまの世界が見えにくくなってきます。今月頂いた「心の声に耳を澄まそう」自分の仏性に自問自答しながら、今日も一日仏さまと一体であった自分であったか確認させて頂きながら一日一日を大事に過ごさせて頂きましょう。本日は誠にありがとうございました。 合掌