教会長メッセージ

2022年5月10日「脇祖さまご命日」「佼成5月号の学び」

どうぞ皆さまお願いいたします。

脇祖さまご命日、ご本部から配信を頂きまして関東教区長の齋木教区長さんのご導師を頂きまして、ご家庭から配信を通してご参加頂いている皆さま本当にありがとうございます。

支部長さん方からなかなか教会長と会えないので、配信を通して手を振ってますって、ありがたいお言葉を頂いています。信者さんのお姿こそ目の前で拝見できませんけれども、各置かれているところでウクライナの祈願供養をさせて頂いて、同じ気持ちにならして頂いているありがたさをかみしめさせて頂いております。

また今日は昨年行われた周年の式典の中で齋木教区長さんから親しくご講話を頂いたことを思い起こさせて頂きました。

ゴールデンウィークの5月3日に横浜教会の発足70周年記念式典が行われまして、お祝いと感謝の気持ちでお花をお送りさせて頂いたところ、そのお花が説法台の上に載せて頂いておりました。真心がタイムリーに届いたことをつくづく感じ、人と人とが温かくならせて頂けるものと思わせて頂きました。

そして教会では今月から道場健幸行と戒名修行をスタートさせて頂きました。いままで日直当番体制でしたがWithコロナとして感染防止対策をしながら教会護持体制を変更させて頂きました。

道場健幸行として、会長先生がご命名をして頂き、健幸行を通して健康になり幸せになっていくために皆さんが願って道場を磨き、自分たちも磨きながら、身心ともに功徳を確認し、お帰りになって頂いております。

戒名修行として、ご宝前のご供養は道場健幸行でさせて頂き、戒名修行はお戒名付けに徹しさせて頂きます。三宝帰依の心で亡くなった方々のお戒名を真心でつけさせて頂きながら、自分自身が生きながらにして仏になっていく、仏性開顕をしていく本来の修行に入らせて頂きたいと思います。

それでは佼成5月号をお手元に置いて頂いて、鯉のぼりの表紙が健やかな成長を祈ってのことですので、こちらまで元気を頂く表紙です。

10ページ「我慢しない-忍辱①」会長先生のタイトルで思うことは我慢しなくていんだよって思わせて頂きました。会長先生から耐える力が具わっていることをお示しくださっております。31年前に会長職を継承された時の心境を教えて頂きましたが、私たちの足元まで下りてきてくださった会長先生の温かさに包まれた思いをして拝読させて頂きました。

会長先生は『私は十年をかけて全国の会員のみなさんとご縁を結ぶ「親戚まわり」をいたしました。あるときには、大きな会場の広いステージにたった一人残されて、一万人にものぼる方々を前に話をすることもあり、人前で話すことが苦手な私にとっては「つらいな」と逃げだしたくなるような瞬間も一度ならずあったのです』

会長先生は決して私についてきて下さいではなく、一列横隊で皆さんと一緒に歩んでいくことを今年の年頭でもお示しくださっています。

『ところが、年齢を重ねてふり返ってみると「つらい」と感じたあのときの経験によっていまがあると感じられます。苦手が得手に変わるわけではありませんが、若いときには我慢や忍耐の連続のように思ったことも。年とともに受けとめ方が変化することを実感するのです』「「つらい」と感じたあのときの経験によっていまがある、苦手が得手に変わるわけではないが年とともに受けとめ方が変化することを実感する」と繰り返し繰り返しの経験によって変化してくるものとおっしゃって頂いております。私も人前でお話しするのは苦手です。なかなか信じて頂けないんですが、いつも緊張しているんですよ。でも少しずつですが変化していると思います。

『見方を変えると、私たちの心には、たとえ怒りを覚えるほどいやなことも、それに耐えて受け入れ、生きる支えにさえする力が具わっている』皆さん勇気が湧いてきませんか?

手を取らせていただくと、とても骨が折れる方がいたりして「もういいや」と思うこともありますけれども、その人も悩みながら生きる支えにさえする力が具わっているということを信じて、お互いに向上しようという見方に返ることが大切だということです。

『「瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ」と無量義経にあります。激しい怒りや憎しみが心にわいたとき、それに耐える寛容の心が起きる、それが仏の教えを学んだ人の功徳だと教える一節です。ここで私が大事だと思うのは、「起さしめ」という言葉です。無理にでも「怒りを抑えなさい」「我慢しなさい」と教えるのではなくて、自分の仏性によって、自然に耐える気持ちが「起こさしめられる」と示されていることに、私は救われる思いがします。忍辱は、けっして我慢を強いる教えではないのです』我がままな心から怒りの癖が起きてきます。しかしこの教えに縁れていけば、自他一体あなたも私もという感情が養われ、怒りや恨みの心が自然と起きてこなくなるというのです。だから我慢しなくていいのですとお示し頂き、自分の仏性によって自然に耐えることができるのです。

『煩悩即菩提といいますが、人を罵ったり状況を恨んだりしたくなるその心が、一方で自分の仏性を呼び覚まします。そのとき、どのような辛苦であっても前向きに受けとめて対処できる忍辱の力が具わっていると、仏さまからお墨付きをいただいていることが尊く、ありがたいと思うのです』この一説は胸がいっぱいになります。煩悩即菩提、誰の心にもある貪瞋痴(人をねたむ、やんなっちゃったと怠ける)の心が起こります。そういう心があるからなんとか立ち上がっていきたい、またそういう人を見たとき、なんとか乗り越えてほしいと願う、それが煩悩即菩提なのですね。対処できる力が具わっていると仏さまからお墨付きをいただいているのです。本当に仏さまのお慈悲が伝わってきます。なかなか受け入れられないことの中のすべてが、人さまに寄り添ってあげられるような自分にならせて頂くための仏さまのお慈悲なんですね。

「忍」は「認」に通ずる、忍辱は「受け入れて認めることを前提にしている」です。

『たしかにそのとおりで、人に対する怒りや憎しみ、苦手意識や嫌悪感を乗り越えることにおいても、環境や状況を受けとめることにおいても、まずは目の前の人やできごとを受け入れて認めること』忍辱は受け入れて認めることを表している。現在の状況をまず目の前のことを認めていくこと、出来事をあるがままで受け入れることが大切と教えて頂いています。

会長先生よりお話しいただくコップに半分の水がある話、半分しか水がないと見るか(否定の心)、半分も入っていると見るか(肯定の心)、誰かが水を入れてくれたと見るか(感謝の心)、どの受け止め方が幸せでしょうか。

開祖さまは、私の役目はみんなが幸せになってもらうこと、として仏さまのものの見方、受け止め方を教えてくださいました。

自分の受け止め方を肯定的に、感謝で受け止めていくことが幸不幸を決めていくこと、自分の心の中に意識して受け止めていくことを大事にさせて頂きたいと思いました。

『「我汝を軽しめず」「皆当に作仏すべしと」といって礼拝する常不軽菩薩に、礼拝された人びとは罵りの言葉をぶつけますが、常不軽菩薩は「能く之を忍受しき」と法華経に説かれています。このくだりの耐え忍ぶ姿勢の底に、相手の仏性を拝み、個性を受け入れる心があることは、法華経の大切なポイントであると思うのです』相手の仏性を拝む、これが立正佼成会の行法としての仏性礼拝行です。どんな状況の中でもそれぞれの個性は違うけれども、一人ひとりの中にある仏さまと同じ心、仏性を拝み切って、すべてを受け入れていくことが一人ひとりを尊重していくことになります。

『受け入れて認める。それは、自分を楽にします。耐えていると思うからつらいわけですが、その状態をありのまま認めてしまえば、不足や不満、怒りや憎悪の感情が鎮まり、つらい、苦しいという思いも軽減されます』自分も完ぺきではないわけで、まずは自分自身の至らなさに気づき、相手も共に修行していることに気づいていくことが大切です。

ウクライナの件に関して、私はいつもいつも怒りの心が起きてしまいます。そんな折、5月4日から本部職員さんがウクライナの人道支援のために派遣され、8日にポーランドとウクラウナの国境付近で慰霊供養がYoutubeで放映され、共に参加させて頂きました。映像に折り鶴が映っていたのをご覧になりましたか?南多摩教会が捧げた折り鶴と教えて頂きました。その折り鶴を折ったきっかけが、その当時の島田教会長さんがロシアの軍事侵攻に対して怒りの心でいっぱいになり、どうしたらこの怒りが静まるかと考え、折り鶴を折り始めたのがきっかけだそうです。祈りを込めて鶴を折っていくうちにだんだんと怒りが静まっていったというお話を信者さんにされたら、信者さんが賛同して鶴を折り始め、なんと3万羽の折り鶴になったそうです。

会長先生より祈願供養をするときは仏性開顕を呼びかけていくようにさせて頂きましょうとのお言葉も頂いております。

『自他ともに凡夫(ただびと)であり、ともに賢愚(けんぐ)を具えたもの同士なのです』そう思うと怒りの心を相手に向けてしまうことを振り返らせていただきながら、忍辱の功徳を実感して、どんな人も受け入れていく、その心が『忍辱には慈悲のはたらきとして利他の側面があることも忘れてはならない』となり、いま自分はどういうことから怒りが起きているのか、怒りの思いの中には相手を思う心があるからということも含めて、いかに心の中にある仏性を確認できるかを大事にしていきたいと思います。人を思ってこそ怒りが起こるわけで、仲良くしたいから自分の思うようにしたい時もあるわけで、自他ともに仏性があることを自覚することが、怒らない、我慢しないという自分の心にあるものを起こさしめ、引き出されるのではないでしょうか?

私が小さい頃は、母がお役をしていましたので、一人で留守番して、一人で炊事して、一人で学校の行くことがありました。当初は我慢している自分でしたが、ふと母のことを思い出したとき、いつも喜んでいる母の姿がありまして、私は母が喜んでいるとの思いが自分の心の中にしっかり納まっていったと思います。目の前の人が喜んでいらっしゃるというおかげさまで、忍辱という行をさせて頂いていたと思わせて頂きます。

どんなことも自分自身が成長向上させて頂くためと捉えさせて頂き、どうぞ忍辱行を自分自身の仏心で受け止めどんなことも否定せず、皆さまとともに修行させて頂きたいと思います。

平塚拝